SUWAの原点は、初代諏訪喜之松(きのまつ)が、当時横浜で飾職人をしていた兄の家で初めて宝石に出会い、その美しさに魅せられたことに始まります。家業であった日本画販売の諏訪商店を継がず、一人で宝石の扱いを始めたのが明治41年(1908年)でした。
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三代目 現会長 諏訪恭一 (中央)
二代目 諏訪喜久男 (左)
初代 諏訪喜之松 (右)
1944年(昭和19年)、戦時中、貴金属類を持つことを禁じた政府は、国民から強制買上げを行いました。その際、外されたダイヤモンドも任意で国が買い取りました。その値段を決めるためのダイヤモンド鑑定委員に、初代喜之松と二代目の喜久男が選ばれました。品質を見極める力は、当時の日本政府にも評価されていました。
1950年代、二代目諏訪喜久男は類稀な透明度を持った翡翠(ひすい)に出会いました。一度販売し、手元から離れたのですが、また廻り廻って喜久男の手元に戻って来ました。これほどの逸品は後世に残さなければいけないと感じた喜久男は、この翡翠を東京・上野の国立科学博物館に寄贈しました。この翡翠は、通称「青とうがらし」と呼ばれています。
1965年代(昭和40年)、三代目諏訪恭一は米国宝石学協会(GIA)の宝石学士の称号「Graduate Gemologist(G・G)」を日本人で初めて取得しました。以来、恭一は美しい宝石素材を求めて世界の原産国を飛び回り、この時より、海外供給ルートの確立を本格的に行いました。特にエメラルドの集荷地で知られるコロンビアのボゴタには62回にも及び訪問しました。
世界の宝石の産地、集荷地で品質の高い宝石を買い求め、より多くの人々が宝石の美しさを身に着けて楽しめるようにと、本格的なジュエリーの開発が始まりました。特に宝石と貴金属との接点である「石留め」の研究に従事しました。宝石の美しさを最大限に引き出すSUWAのジュエリーの第一歩は「セッティング」にあったのです。
国内で美しいジュエリー作りの研究を重ね、身に着ける人が楽しめるものを提案したいという三代目諏訪恭一の想いは米国に向けられました。1983年、ニューヨークのジュエラーに品質の良さが認められ、取引が始まりました。以来、恭一は全米を駆け巡り、SUWAの品質を認め、SUWAのジュエリーを求める各地ジュエラーとのビジネスが広がっていきました。
米国ビジネスを広げる傍らで、宝石の美しさ、楽しさを人々に伝えたいという諏訪恭一の想いは、「宝石の本」という形で世に出ていきました。自身の300回を超える海外買付けの経験を基に、「宝石の品質の見分け方と価値の判断のために」の宝石1が93年に発刊され、97年にはその続編宝石2を書き下ろしました。そして2000年には、宝石の美しさを引き出したジュエリーの特集、宝石3が出版されました。
2000年に入り、日本国内と海外の販売拠点が拡大していきました。日本国内は、11都市19店舗、海外では米国25都市35店舗、カナダ2都市2店舗の合計38都市56店舗でSUWAのジュエリーは販売されています。
宝石は大自然からの預かりもの。SUWAは、大自然から宝石を預かり、美しく仕立てて、身に着けて楽しむ人々に預けていきます。そしてそれが受け継がれ、100年先の人々に喜ばれることを変わることなくお届けしていきたいと考えています。
創業100年を超える国内長寿企業を対象に取材・紹介している「智慧の燈火プロジェクト (運営会社 : 株式会社チエノワ) にて、弊社3代目会長 諏訪恭一が紹介されました。